アニマル×エデュケーション
Animal と Education がテーマのオージー娘が綴るつれづれ日記。

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宗教

 最近宗教についてよく考える。日本では宗教が人々の意識の中にそんなに根強く存在しておらず、信仰するというよりもむしろ習慣やイベントとして形式的に儀式をしたりお寺や神社を参拝したりして、日本の文化的アイデンティティを見出している感じが強い。
 私の家は神道家だけど、キリスト教の幼稚園と小学校に行き、毎週日曜日に卒園した幼稚園の教会の礼拝に通っていたし、姉はさらに中学・高校までキリスト教の学校だったので、中1くらいまで自分の家の宗教はキリスト教なのかと思っていた。その程度の意識しかなかった。
 多くの日本人にとっては宗教の本来の姿に対する認識は浅いのではないかと思う。結婚式はチャペルで、お葬式は仏式で。お正月は神社へ初詣に行き、クリスマスは賛美歌を歌う。これらの習慣は「宗教」ではなく「文化」だ。家の宗教はそれぞれあっても、心から神様や仏様やイエスキリストを信じているという人は割と少ない。むしろ、「宗教」という日本語には怪しげな響きすらある。「宗教的」というと、人の心を洗脳して偏った方向へ考えを植え付けるという悪い意味で使われることが多い。
 もちろん日本で育った私にも、宗教に対する悪い先入観がしっかりと根付いてしまっている。信仰の度合いが強いほどに、怪しさを感じて知ろうとしなかった。だけど、オーストラリアに来て色んな国の人と触れ合って、宗教に対する価値観がすごく変わってきたように思う。特に、キリスト教の神父さんの家族と2ヶ月一緒に生活したことと、イスラム教徒の友だちと仲良くなったことで、むしろ心から宗教を信仰できる彼らがとても羨ましく感じるようになった。GodやAllahを心から絶対的な尊厳として慕い、毎日祈りを捧げ、それらからの声を聞くことを人生の喜びとする彼らは、気持ちにゆるみがない。そしてとても謙虚に周囲を気遣える人たちだ。彼らと一緒にいると、特に宗教を信仰していない自分が下等に感じられたりする。
 彼らを通じて色々学んだこと、自分で考えたことを、ここに書き残そうと思う。

○神道
 まずは、自分の家の宗教について。今まで気にしたこともなかったけれど、オーストラリアに来てからよく家の宗教のことを聞かれるので本で勉強した。それによると、神道は日本のオリジナルな宗教で、仏教が伝わるよりもずっと昔から人々の心の中に根付いている。特定の存在をあがめるのではなく、自然の中に神の力が宿っているとする考えで、山や森などを神様の領域として縄を巡らせたり鳥居を立てたりして奉り、自然の恵みに感謝する場所として神社にお参りをする。つまり、神様の定義があまり明確なものでなく、人間の力を越えた自然界を営む力の持ち主を「神」として崇める、大昔から日本人に根差された概念だ。
 私自身、この「神」の概念が頭にある。基本的にサイエンスを信じているけれど、どんなにサイエンスを勉強しても、広い宇宙の中に生命に溢れる星地球が誕生して人間が社会を築き上げるようになったことが、単なる偶然だとは思えない。美しい自然界と複雑な人間社会を営んでいる、サイエンスでは説明しきれない強いパワーが存在するのだと私は信じていて、そのパワーがいわゆる「神様」の力なのだと解釈している。どこの国にも「神」の概念があるのは、どこの国にも自然界の営みと人間社会とが存在し、人々がそのパワーを定義づけようとした結果ではないかと思う。
 今まで神道についてほとんど知らなかったけれど、改めて勉強してみると、自分の中にある「神様」の概念は、神道の考えに即していると気づいた。私が自然界のものに強い関心があるのは、学術的に面白いからという理由だけではなく、人間には絶対に造れないもの、神様から与えられた贈り物という概念があって、だからそれらに出来る限りの愛情を注ぎたいのだと思う。ハエをつぶさずに生け捕りにしてわざわざ外へ逃がしたり、アスファルトの死体をわざわざ土へ移したりする習慣が小さい頃から身に付いているのは、そういうことだと思う。


○キリスト教
 キリスト教は自分の育った環境の影響もあって、神道よりもなじみ深い宗教だ。信仰者数ナンバーワンのこの宗教は、神様(=God)が私たち一人一人を愛していることを悟った瞬間から信仰がスタートするので、誰もが突然キリスト教信者になる可能性を持っているとのこと。イエスキリストが唯一の神の子であるとして、彼の死は全ての人間の罪(=sin)を償うためだったと信じている。「全ての人を愛しなさい」という彼の有名なセリフは、キリスト教徒をよく表している。謙信なキリスト教徒ほど、弱者に対するサービス精神が強いように思う。途方に暮れている時にキリスト教徒の優しさ(=愛)に触れると、自分の非力と周囲の愛の有り難さに気づかされ、自分の罪を償うためにキリスト教の考えに従いたくなる。そういう心境でキリスト教徒になる人が多いんじゃないだろうか。
 キリスト教は、不思議な誘因力のある宗教だと思う。ホストファミリーと毎週教会の礼拝に通う中で、何度もキリスト教徒になろうかどうか迷った。キリスト教を信じている人たちは、Godから離れて生きることを選ぶと地獄へ落ちると信じている。自分たちの信じるGodだけが人間を救ってくれると信じていて、誰もが犯している「罪」の許しを請うには、聖書の言葉に従いGodと個人的な関係を持つことだけだと信じている。そして、そのことに気づいていない非信者を心から哀れに思い、救いの手を差し伸べようと、キリスト教へ誘ってくる。
 私はしばしば自分勝手な判断をしたり、周りへの配慮が足りないと感じることがある。そんな時、神様が正しい判断へ導いてくれたらなぁと思ったりする。キリスト教の皆さんは「Godと関係を持てばGodの声が聞こえるようになる」と本気で信仰を勧めてくれるのだけれど、私の信じる「神」と彼らの信じる"God"が果たして同じものなのかどうかモヤモヤしたり、聖書に書かれているイエスキリストの起こした奇跡を心から信じることができなかったりして、結局キリスト教徒になることは諦めた。それでもなお、「キリスト教を信じればGodが救ってくれるのに・・・」というプレッシャーを周りからは強く感じられるので、とても心が揺らぐ日々が続いた。Godとイエスキリストが唯一のtrue guidanceだと絶対的に信じることができる彼らが羨ましい。神の声が聞こえ、それに忠実に従うことに幸せを見出せる彼らが、すごく羨ましい。

○イスラム教
 イスラム教については今までほとんど何も知らなかった。9.11のテロの影響もあり、正直なところ、ネガティブな偏見を持っていた。
 ブリスベンに来てから2人の謙信なイスラム教徒(=ムスリム)の学生と仲良くなって、イスラム教のことを色々教えてもらい、自分がイスラム教に対して間違った偏見を持っていたことに気づいた。
 イスラム教は、決まり事がやたら多い。1日5回お祈り、動物性食品の制限、禁酒、ラマダン(断食)、男女間の距離などなど。万物を造り上げた神=Allahに従う生き方で、その生き方次第(つまり、どれだけAllahに従うことができるか)で死後の運命が決まるとのこと。始めはこれらのルールに忠実に従うムスリムを客観的に見て、「洗脳されている」という印象を受けてしまった。だけど、後々彼らと仲良くなるにつれて、彼らのその行為に尊敬するようになった。そして、キリスト教徒同様、羨ましくさえ思えるようになった。
 語学学校のクラスメートのAmiraは、オマーン出身のとても謙信なムスリムだ。絶対にハラル食品(イスラム教で禁じられている動物性食品材料を一切使っていない食事)しか食べないし、絶対にお祈りも欠かさない。友だちみんなで出かける時も、ハラル食品が売っていないと食事を我慢するし、お祈りのためだけに外出の予定をキャンセルしたりもする。そしてそれだけ謙信にイスラム教を信仰していることをすごく誇りに思っている。
 他クラスのインドネシア人の友だちFriskaも同じく謙信なムスリムで、私にイスラム教について熱く語ってくれた。彼は一般的にムスリムに対して抱かれている偏見に苛立ちを覚えている。特に2001年のテロの影響で、イスラム教とテロリストのイメージが同一に持たれていることにとても憤っていた。
 “イスラム教徒と一言に言っても、色んなムスリムがいる。テロリスト達が行った行為がムスリムとしての行為だとは大きな誤解だ、「jihad=聖戦」というコンセプトも誤解。ムスリムは社会の中でお互いを信頼しあって生きることに誇りを持っている。Allahに従って生きる中で、互いを尊重しあう社会が自然と築き上げられる。イスラムテロリストだなんて、馬鹿げている!”

 イスラム教を誇りに思っている彼らを見れば、ムスリムとテロリストとは全く別物だと容易に納得できる。彼らは毎日何度もお祈りをし、良い人間として一日一日を生きることにとても誇りに思っている。いつもAllahの神様が心の中にいる真のムスリムに、テロを起こそうなんて概念が生まれるとは想像しがたいことだ。一度持たれてしまった偏見を変えることは容易ではないが、ムスリムの人たちには、良い行いを通じて少しずつ周りの誤解を解いていって欲しい。


○自分の宗教
 “Yukaは何か宗教を信じているの?”そう聞かれたとき、答えに困った。基本的に特定の宗教を信じているわけではないけれど、私の頭の中にはぼんやりとだが「神様」の概念があって、神様が築き上げた自然と生き物のために愛情を注がなければという使命を感じている。聞かれる度に、その考えを伝えてきた。

 そして、キリスト教やイスラム教を心から信仰する周りの人たちに影響されて、私も何かの宗教に属すべきか真剣に考えた。
「これから何年もオーストラリアに住むことを考えたら、やっぱりキリスト教?でも、イエスキリストが本当に神様の息子なのか??」
「そもそも、神道ってどんな宗教?よく知らないし、知ったところでオーストラリアの人には知られていないし、神道徒なのに毎週キリスト教の教会に行ってもいいのだろうか?」
「いっそ、今まで通り、自分のオリジナルな神様の概念を持っていればいいんじゃないか。だけど、やっぱりそれだと曖昧で、時々よく分からなくなる。何かはっきりした形で神様を信じたい。」

 
 色々悩んだ末、自分は神道徒として生きることに決めた。


 結局宗教というのはどんな文化の中に生きていようと関係なく、自分自身の中に強く信じるものがあれば成立するもので、沢山ある宗教の種類はその姿形を分かりやすく認識するために生み出されたものなのだろう。結局は何をどの程度信仰するかはその人次第だという結論に達した。だから、周りがキリスト教徒ばかりだからと言ってキリスト教徒になろうとしても、自分の中でその形が明白に持てなければ、意味がない。逆に、周りの誰とも異なる概念を持っていたとしても、自分の中でその信念がしっかり存在して、それが良い行為に結びつくのなら、それを自分の宗教として堂々と持っていればいい。
 神道について本で読んでみた結果、自分が無意識に持ち続けていた神様の概念が実は神道の概念と一致していたので、これからは自分を神道徒だと名乗ることに決めた。正月に帰国した時に神社へ初詣に行き、その心を固めてきた。
 神道徒になったからと言って、キリスト教やイスラム教のように定期的にお祈りをするようになったわけではないが、毎日何となく自然界のものに感謝したり、自分自身を神様の目線から見るようになった。毎度食事の度に、食べ物の恵みに手を合わせ、感謝を込めて「いただきます」と「ごちそうさまです」を言うようにしている。これは、日本人としてのアイデンティティとしても、ずっと習慣として持ち続けていたい。


 
 それにしても、今まで日本で生活する中で、行事は別として、神道の考えを知る機会があった記憶はない。それなのに自分の中にある概念が、偶然家の宗教の概念と一致したのは、不思議だ。日本で生活する中で自然に身に付いたのか、単なる偶然なのか、よく分からない。
 きっと、今まで自分を見守ってくれていた「神様」が、その存在にしっかりと気づくことができるよう導いてくれたのかもしれない。そう思うことにしよう。そしてその存在に今まで以上に感謝し、彼の営む自然界や社会をこれからも大切にしていこうと思う。
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