アニマル×エデュケーション
Animal と Education がテーマのオージー娘が綴るつれづれ日記。

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教育信念

授業の一環として、自分のTeaching phylosophy(教育信念?)について考えさせられている。いろんなTeaching styleの先生の話を聞いたりビデオを見たりして、クラスメイトとディスカッションするというプロセスを繰り返す中で、だんだん自分に合ったスタイルが見えてきたように思う。そしてやっぱり、私の強く持っている考えは他の大半の人とは違う考えのようで、自分を保つのにすごく気を使う。

例えば、サイエンスの授業なんか特に、理論を理解して覚えたり、与えられた実験を指示通りやってレポートを書くというオーソドックスな部分はシラバスに求められている内容の半分にしか満たない。もっと大事なのは、それらの知識をクラス内で話し合って、意見を言い合って、自分の意見を持つことだったり、自ら自然界のことに疑問を持って、その答えを自分で見つけるための実験を考えたりすること。最初は「ごもっとも!」と思っていた。日本の受験戦争に備えるための詰め込み勉強が嫌いだったから、こっちの教育には随分感心していた。だけど、実際そういう教育を受けて育ったクラスメイトたちの話し合いを聞いていて、意見が変わってきた。みんなおのおのが考えていることを競わんばかりに言い合うけれど、結局その話し合いは何を生み出すのだろう?結局話し合うのはいいけれど、世の中の問題を解決したり、将来の勤め先で最終判断を下すのは、トップの人たち。トップの人たちは、何世代も年上の人たちばかりで、私たちの教え子がそういうポジションにつくころには、彼らが高校生のときに散々出し合った意見は大きく変わっているだろう。それに、サイエンスを10年も勉強していない子たちの知識は、どれだけよく勉強していても、限度がある。けど、自分の発言に自信を持つように育てられている彼らは、知識に自信がなくても、とっても偏った見方をしていても、堂々と意見を言う。堂々とした意見を聞くと、それが正しいと思ってしまいがちだ。特に高校生くらいだと、そこまで深く考えずに意見を聞いていることが多い。同じクラスメンバーと数年間ディスカッションを続けたら、一番発言力のある目だった子の意見がクラス全体の意見になっていき、静かな子達、特に海外から来た子達の考えは「誤った」意見かのような錯覚に陥る。その傾向は大学に進学しても、社会に出ても、ずっと続く。発言力のある人が、知識を持った人や人と違う視点から物事を見られる人たちよりも有利に勝ち進んでいく社会は、こういう教育から発生しているのではないか。
オーストラリアは、「移民や先住民と協調して、文化や価値観などの多様性を積極的に国の力として取り入れている国」だと自称しているけれども、そう感じないことがしょっちゅうなのは、こういう教育を受けて育った人たちが形成している大学というコミュニティの中に生きているからじゃないか。そんな中でも、自分のようにマイノリティなバックグランドで、ユニークな考えや知識を持った人を暖かく迎えてくれる人たちは、教育の影響をまともに受けずに自分なりの考えを持って色んなバックグラウンドの人と交流できる人だったり、もしくは、割と長く社会の中で生きてきて、オーストラリアのこういう一面に疑問を持ち始め、アジア人の社会のあり方に目を向け始めた大人たちだったりする。

ある先生が、「我々大人は自分達が子供の頃に習った方法で教育する傾向にある」と言っていた。そのとおり、私の授業の仕方は、私の高校のときに受けた授業がすごく反映されている。授業内容を考えるとき、ディスカッションを取り入れようなんて考え付きもしない。限られた時間内で、いかにそのレッスンのトピックをわかりやすく教えて生徒の頭に定着させるかばかり考え付く。高校生のサイエンスの知識レベルで社会問題について話し合うのは、上に書いたように、発言力のある子とない子の差をどんどん広げるばかりで、話し合いがどんな方向へ行くかも分からないし、リスクが大きいように思う。日本語でも同じ、理解が浅いまま日本語を使ってエッセイ書いたり対話を試み始めるのは、間違ったものを知らずに使い続けるリスクが高い。やっぱり、脳みそが柔らかいうちに、しっかりとした土台をいかに築くかが大事だと思うようになった。(自分が高校生のときはそうは思わなかったけど、現に今英語を毎日使っていて、高校のときに叩き込んだ知識にすごく感謝している。今になって見えるようになった考え方だ。)

「人と考えが違っていてもいい」とよく言われるけど、実際上のような意見をチュートリアルで言おうものなら、クラス内から大反対を食らう。自信がなくなる。(彼らにとって人の意見に反対するのは当たり前なことだけど、日本人の私はやっぱり自動的に「反論=攻撃」と感じてしまう。)きっと、就活の面接でも、自分の教育信念はまず最初に聞かれる内容だろう。そんな大事な場で、上のような考えを堂々と言えるだろうか?人と違う考えを受け入れてくれる学校と出会うまで、我慢できるだろうか?

どんな社会でも、マイノリティは強くなければいけない。強く自分を保つべきか、賢く周りにカモフラージュするべきか。永住が確定するまでは、後者だな。少なくとも表面上では。悔しいしけど、失敗は絶対にできない。自分を起用に抑えて、求められるようにやらないと。
でも抑えつつも、自分の信念は、変わらずに持っているようにしたい。たまぁにチャンスがあるときにうまくそれを活かせるように。そういう時こそ、本当の自分に自信が持てる。そのときが来るまで、賢くがんばろう。
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