アニマル×エデュケーション
Animal と Education がテーマのオージー娘が綴るつれづれ日記。

日本語教師という仕事

sP1070286.jpg


オーストラリアで教師の仕事を始めてから約2年経つのですが、この仕事に就けて、本当によかったなと思っている。実は今からちょうど2年前は、動物園という今とは全く異なる職場で働いていたのですが、そこから信じられない悪運・幸運・ミラクルが重なりに重なり、不思議な力に導かれるかのように教師という仕事に就き、永住権を獲得するにいたりました。今考えると、私は最初からオーストラリアで教師になるという運命だったんだろうなと、そう自然に思える。

「教師」という仕事は、本当に色んなことが毎日起こっては過ぎてゆくもので、なかなか思ったことをゆっくりと書き留めるタイミングがない。だけど、今年に入って、今までよりももっと自分の教師としての役割について考える機会が増え、今考えていることが今後の基盤になっていくだろうなと感じたので、そう思った時に書き残しておこうと思った。



教育学へのきっかけ
もともと大学で動物の勉強をしていた私が教育を勉強しようと思ったのは、人間と自然界の生き物とが共存していける社会づくりに貢献したい、それには教育(つまり何かを人に伝えていくこと)を通じて人の意識に働きかけていかなければと思ったのが原点でした。でも実際社会に出てみると、それができる仕事というのはあまり世の中に存在しない、あるいは存在しても経営の兼ね合いでなかなか自由にできないということが判明し、圧倒的に需要の多い日本語教師という仕事に導かれ、今に至ります。そのまま今後も日本語教師としてキャリアを続けていく予感。それくらい、今の仕事に運命的なものとやりがいを感じている。


日本語教師とは?
日本語教師というと、ひらがな・カタカナを教えたり、挨拶や簡単な文章の文法を教えたり、文化的なことを教えたり、というのが多くの人の想像するものだろうと思う。将来日本に旅行したり、日本人と一緒に仕事をするようなシチュエーションで役立つことを教えているのだろうと思っている人が多いだろう。もちろん、それは全部正解で、それらが仕事の大半を占めているのも事実。でも私がやりがいを感じているのは、もっとそれらを超えた、強いて言えば言語学習の「副産物」的な部分。多くの生徒や親御さんたちがあまり意識していない、将来日本と全く縁がないような人にも絶対にためになる力を与える可能性が、言語教育にはあると思っている。


オーストラリア(クイーンズランド州)での日本語学習ステップ
前置きが長くなったが、普段日本語の授業でどんなことを教えているのかをざっと紹介。地域や学校にもよるので一概には言えませんが、あくまで私の経験から紹介。
プレップから小学校4年生くらいまでの小さい子たちのクラスでは、あいさつを歌で教えたり、食べ物の名前や身近なものの名前を日本語で教えて、それらの言葉を使ってゲームをしたり何かをデザインしたりといった感じ。日本語の発音や日本のイメージに触れてもらい、世の中には自分たちとは全然違う言葉・文化・環境・ルールの中で暮らしている人たちもいるということに気付いてもらうのがねらい。
小学校5・6・7年生くらいになると、簡単な文章を教えるほか、もう以前習ったことのある文化的なことに関しては、自分でさらに調べて発表させたりということもする。日本語の授業が4年目以上になると、日本に住んでいる人ならこんな風に行動するだろう、といったことも考えられるようになってくる。
オーストラリアでは8年生からSecondary School(中学・高校)になるので、学校によっては、8年生から初めて日本語を習う子もいる。なので一概に言えないが、10・11・12年生まで日本語を続ける子たちは、複雑な文法を使って簡単なエッセイや手紙を書けるようになるほか、日本人を相手に仕事をしているシチュエーションの課題を与えたりと、より学習内容も実践的になっていく。興味のある子は、自分でアニメやマンガ、YouTubeなどを見て文化的なものに触れたり、日本のことを積極的に調べたりするようになる。

日本語という科目は、大体好き嫌いが大きく二極化する。日本語が必須の学年は、「I love Japanese」という子と「I hate Japanese」という子がクラスに両方いることが多い。選択になっても日本語を続けるような子たちは、だいたい日本語の授業が好きな子たちで、中でも格段に日本語が好きな子たちが、卒業後も頑張って勉強を続けたり日本に留学したりして、日本語を自分のものにしてくれる。


バイリンガルを育てるという役割
日本語教師の大きな役割の一つは、この「バイリンガルな人材を育てる」こと。移民の国オーストラリアでは、外国人を相手にする機会が多いので、英語以外の言語を話せる人が多い方が、国にとってメリットが多い。よって、他言語を知っていると就職に有利、という常識がみんなの中にある。そういう意味で、言語教育を義務化することに納得してくれている生徒や親御さんも多い。実際、私が大学の時にずっとチュータリングをしていた生徒(といっても同い年くらいですが)が大学卒業後日本で1年半仕事をして帰ってきて、現在日本語を使って日本領事館で働いている子がいるのですが、その子の活躍ぶりを見ると、「日本語を教えてきてよかった」と感じるのは言うまでもありません。そういう人材が二国を繋ぐ窓口の役割を果たしてくれることで、国同士が繋がり、それが最終的に世界を繋ぐことになるから。世界を繋ぐことができる人がもっと増えていったら、戦争とか不法移民とか捕鯨を巡る論争など、今世界中で起こっている様々な問題も減っていくだろうに。そう思うと、日本語教師としてそういった人材を育てる役割を果たしていることにすごく意味を感じる。

※ここでいう「バイリンガル」は、二つかそれ以上の言葉をコミュニケーションツールとして使える人のことを言っています。英語と日本語両方で育った人だけじゃなくて、後から勉強して第二言語をコミュニケーションに使っている人も、うまい・下手に関わらずバイリンガルです。


外国語教育の「副産物」
でももちろん、バイリンガルになるくらい日本語を勉強し続けられる人は、ごく一握りなのが現状。「日本語?数年学校で勉強したけど、それきりやってなくて結局ほとんど忘れちゃったな・・」という人がほとんどなのが現状。じゃあ、そういう人たちは学校で日本語の勉強に費やした時間を無駄にしてしまったのか?というと、決してそうではない。バイリンガルにならなくても、外国語を勉強することで得るものは沢山ある。冒頭で述べた、言語学習の「副産物」に相当する部分のことだが、むしろそちらの方が世の中にとって必要な効果なんじゃないかと思う。

例えば、外国語を勉強することで、「世界には英語以外の言葉を毎日使い、自分たちとは全然ちがう文化や環境の中で生活している人がいるんだ」という常識が身に着く。「身の回りにいる移民やワーホリの人たちは毎日英語を使ってくれているけど、それには何年もの努力があったんだ」という尊敬の念が身に着く。他国の文化を楽しむことで、自分の国の文化に対するプライドが芽生え、愛国心やセルフ・アイデンティティが生じる。英語と別の言語の違いに気付くことで、英語(自分の言語)についてもっと理解を深められる。脳の言語野を鍛えることで、例えば医学用語とかIT用語などの専門用語を学ぶのに必要な力が自然とつく。そういった「副産物」が、実はこの先のグローバル社会にすごく重要な力を社会全体につけてくれているのじゃないかなと思っている。


グローバル社会と異文化コミュニケーション
今後のグローバル社会を考えたら、各国がそれぞれの個性を保ちながらも同じ方向に向かうために、異文化コミュニケ―ションは不可欠なもの。いくら英語が世界標準語とはいえ、各国で話されている言語・方言は、それを使って生活している人たちの文化や生き様と密に関わり合い、生き続けていくもの。沢山の文化・考え方・価値観の人たちが一つの方向に動いていくためには、マジョリティ(英語話者)がマイノリティ(他言語話者)を吸収して行くのではなく、お互いがお互いの違いを考慮した上で、お互いの折り合える点へと歩み寄っていかなければいけない。自分の視点からだけでなく、他人の視点から考える、ということを地球規模でするための第一ステップとして、外国語を少しでもいいからかじる、ということがすごく大事。習った言語だけにとどまらず、それを活かして様々な言語や文化に自分から興味を広げていくことができれば、なお良ろし。
そういう広い視点から物事を考える力は、グローバル社会に出なくても、毎日の生徒の生活の中でも活かされていく、大切な力。特にオーストラリアのような移民の国では、普段の生活の中にカルチャーショックが盛り沢山!だから、生徒がバイリンガルにならなくても、そういうカルチャーショックを大らかに受け入れられるように視野を広げてあげることも、外国語教育の重要な役割なのです。


仕事や活動を通じて私のめざすもの
長々と外国語教育について書いてしまいましたが、こういうことを全部トータルで考えると、本当にこの仕事に導かれてよかったなと実感しています。
もともと抱いていた「人と自然が共存し続けられる社会づくりに貢献したい」という想いも、動物の勉強をした専門家として直接的に働きかけるのではなく、折り紙や太鼓などの文化芸能や、自分の仕事として与えられた日本語の授業を通じて間接的に働きかける方が、実は近道だったのではないかとさえ思う。

私が大好きで大切にしていきたいと思っている自然やそこに住む生き物も、結局は人間全体が意識していなければ守っていくことはできない。自然や生き物への関心を育てるのに、専門家として話したのでは耳から耳に通り抜けてしまうような生物学的なお話しも、「折り紙のYukaさん」や「日本語の先生」が話の流れの中でそれとなく話した方が、意外と伝わるもの。教師の仕事や自分の活動を通じて、沢山の子供たちや親御さん、コミュニティの人たちと接し、個人的な関係を築く中で自分の大好きなものを共有していく。その少しずつの共有が長い期間を経てどのくらい影響を与えるのかを見られるのも、教師だからこそのもの。2年近くが経った今、その好影響が徐々に私の周りで見え始めていることが、素直に嬉しい。

そして自分がバイリンガルであることで、自分が大好きなものを、国を越えてもっともっと色んな人に伝えることができるという見本になることを、言語教師としてこれからも続けていかなければいけないなと感じている。
責任あってこその生きがい。これからもずっと大切にしていきたい。


スポンサーサイト

この記事に対するコメント

大変よく書かれていて、ユカさんの意思が伝わってきます。もっと多くの人が見てくれればいいと思うので、英語でも出したらいかがでしょうか。
ただその際にひとつ訂正してほしいところは、オーストラリア脳に高校は8年生からというところ。これはクィーンズランド州だけで、ビクトリア州やニューサウスウェールズ州では7年生からです。たしか、クィーンズランド州でも7年生から高校にする方向に動いているという話が5年前まではありましたが。
以上、今日もいい一日を!
【2015/05/13 06:45】 URL | Yumico Tanaka #-[ 編集]

Yumicoさん
ありがとうございます。そう言っていただけると嬉しいです。そして訂正もありがとうございます。その通りですね。そして今年からクイーンズランドも7年生からセカンダリーになりましたね。

英語化に関して、個人的にメッセージ送らせてもらいますね。
【2015/05/13 21:25】 URL | Yuka #-[ 編集]


この記事に対するコメントの投稿













管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック

トラックバックURL
http://yuka2005diary.blog6.fc2.com/tb.php/288-6daeea77
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)