アニマル×エデュケーション
Animal と Education がテーマのオージー娘が綴るつれづれ日記。

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変えられないことを受け入れること その5

職業がら、自閉症やADHDと言われる注意欠陥多動性障害などの発達障害を持つ子供たちを相手にすることも多く、また自分自身に関連付けられることも多いため、これらの発達障害には人一倍知識と理解を深めてきた。こういった発達障害の特徴が当てはまる人たちに対する社会の理解を深める機会を何とか作れないかとこれまでしょっちゅう考えてきたきたものの、自分は専門家ではないし、簡単に理解を得られるような内容ではないセンシティブな内容だし、下手すれば自分自身を不利な状況に追いやるようなことにもなり得るので、機会をなかなか作れずにいた。

今年に入って担当するクラス数が倍に増え、教師として発達障害を抱える子供を相手にする機会も増えた。そして自分自身も、発達障害に当てはめられるような「自分の中の壁」と真剣に向き合う場面が何度もあり、「やっぱり発達障害について世の中にもっと知って欲しい」と思う気持ちがどんどん強くなっていった。

スクールホリデーに入った今、発達障害に関するウェブサイトを読んでいたら、4月が「Autism awareness month(自閉症に対する認識向上の月)」だと書いてあった。また、日本のテレビ番組でも少しずつこういった障害について取り上げられているのを見たりして、伝えるとしたら今かもしれないと思った。そう気づいたこの時に、いつも伝えたいと思っていた胸の内を、勇気を出してつづってみようと思う。

●聴覚処理障害とアスペルガー症候群

半年ほど前のこの記事で、私は聴覚処理障害(Auditory Processing Disorder=APD)があるということを明かした。これは簡単に言えば、聴覚が過敏であったり、言葉を音として捉えてしまうために、聴いた言葉から情報を得て処理することに支障があるコンディションのこと。聴覚処理障害も発達障害のある子供や大人によく見られる特徴であり、コミュニケーションを困難にさせている直接の原因になることが多い。また聴覚処理障害は遅読症(ディスレクシア)などと同じ学習障害の一つである。大学で学習サポートを受けるためには何か一つ診断があればよかったので、聴覚処理障害と分かった時点でそれ以上の診断は受けなかった、というか色んな理由で受けられなかったのだが、自分がそれまでずっと感じてきた困難は、実は聴覚処理障害だけで説明がつかないものも多く、聴覚処理障害は単なる一つの症状に過ぎず、それを越えたもっとトータル的な何かがあるはずだという確信があった。

大学で教育学を学ぶにつれて発達障害についてもっと知るうちに、「アスペルガー症候群」という言葉に出会った。アスペルガー症候群とは自閉症の一種であり、社会性とコミュニケーション、想像力の三分野に支障があるとされている。(参考文献http://www.autism.jp/knowledge/whatisas/web-j.html
そもそも「自閉症」という病気自体が、言葉もしゃべれないほど重度の人から、世に言う天才と呼ばれるような高い能力を発揮できる人まで、本当にピンからキリまで色んな形で現れるので、なかなか理解がされにくい病名なのですが、要は、仮に「自閉症の人」と「自閉症ではない人」という二種類の人間の特徴を両端に置いて考えた時、その両端を結ぶ線の上に、「ちょっと自閉症っぽいところがある人」「だいぶ自閉症っぽい人」「たぶん自閉症の人」のように、「傾向」としてすべての人を置くことができる。どこからがその人の「性格」でどこから診断名がつくのか、という定義が曖昧であり、特にそのライン上にある「高機能自閉症」とか「アスペルガー症候群」とされる人たちの多くは、多少の困難はあっても「普通の人」と同じように生活ができ、「普通の人」と一緒に勉強や仕事もできるので、なかなか病気だとは認識されにくいのである。いわゆる「ちょっと変わった人」「空気が読めない人」「自分の世界にいる人」のように言われる人たちがアスペルガーに当てはまる特徴を持った人たちであることが多い。

私自身、アスペルガー症の特徴に当てはまることを沢山自覚しており、診断は受けてはいませんが、おそらくそれだろうと思っている。診断を受けることも可能ではありますが、聴覚処理障害などと違って、何やら想像のつきにくい謎めいた病名と、説明しても実態をつかみにくい複雑な特徴のため、診断を受けてもそのメリット(社会的サポートや安心)よりもデメリット(社会の偏見や誤解、自分の中での諦め等)の方が大きいと今は思うので、現時点で診断を受けるつもりはない。ただ、診断を受けていない身でこういう記事を書くことはとてもためらわれるし、ここで自分の確信を公表することによって生じ得る偏見や誤解が非常に怖い。ただただ、社会の理解度が少しでも増えて欲しいと願って書いているということをご理解いただきたい。


●アスペルガー症の特徴
アスペルガー症の人たちは、先述のように社会性・コミュニケーション・想像力の三分野に支障があり、実際に言われていないことを読み取って判断するということが苦手である。また、周りの人の立場やその場の状況を想像するのが難しく、自分主体で物事を考えるように思考回路ができてしまっている。その部分だけを聞くと、一般的には「ただ自己中な性格なだけじゃないか」と思うのも当然だろう。でもそれが、アスペルガー症の本人たちも百も承知で、自分のそういう部分が嫌で直そうと努力しているのにも関わらず直せないのは、脳の機能に原因があるからであり、一番変えたいと思っている本人たちにもどうしようもできないジレンマなのだ。だから本来は、そういう見えない分かりにくい障害の人にも、車いすの人が物を落としてしまった時に拾ってあげるような配慮が必要なのである。でも実際、見えないし分かりにくい障害に対して理解なんか求められないと諦められてしまっているのが現状だ。そしてそういうあきらめが、社会での認知度をさらに遅くしてしまっている。

また一方で、アスペルガー症の人たちの多くは何かへのこだわりが強く、「自分の世界」なるものを持っている。例えば、歴史とか科学とか乗り物とかマンガの世界とか音楽とか、人それぞれ。そして、そのこだわりが世の中に役立つものであったり、人々の興味を引くものであったりすると、その人はたちまち成功者や人気者になったりもする。その人でないと発揮できない、素晴らしい能力や個性。それを出すためには、アスペルガー症の特徴そのものを本人が心から受け入れ、ありのままの自分の個性に堂々としていられることが重要であり、それには周りの理解がとても重要になってくる。

アスペルガーを含む自閉症スペクトラムについては、セオリーを読むよりも具体例を見る方が分かりやすいと思うので、興味があれば、この番組で取り上げられているケースを見てもらえれば想像がつき易いと思う。



●発達障害患者の扱い
オーストラリアの学校では、自閉症やその他の発達障害がある子も、他の子と同じクラスで勉強するのが一般的である。公立の学校では「スペシャルニーズ教育ユニット」といって、障害のある子どもを集めてその子一人一人に合った教育を提供するための施設が校内にあったりするが、高機能自閉症やアスペルガー症などの場合は基本的に主要科目は一般クラスと一緒に授業を受ける。その際、各先生がその子供の特性と対応方法を明確に知っておかなければならず、他の生徒たちにも「○○君はこれこれこういう特徴があって、こんなに素晴らしい部分もある。でも時に迷惑かけることもあるかもしれないけど、そういう時はみんな分かってあげられるよね?」と言ってオープンに協力を求める。それが当たり前なので、子供たちは発達障害のある子に対しても割と柔軟に対応できるように育つ。障害のある子も、障害があっても自信を失わずに自分らしさを活かすことを覚える。特に、自閉症やアスペルガーの子たちは他の子から抜きん出た素晴らしい才能を発揮するケースも多く、そういう部分を全面的に褒める教育のお陰で、むしろそういう子たちが沢山賞をもらったりすることも珍しくない。オーストラリアの教育のとても素晴らしい部分だと私は思っている。

それが、大人の社会になると、話は違う。社会人ともなると、いくら才能や強い個性があっても、社会性に欠けた人間はなかなか理解はしてもらえないものである。障害による無礼や失敗などによって人間関係や雇用に影響が行き始めた際に、仮に診断名を使って説明しても、トータルで認められなければ自然と縁を切られてしまう。しかも環境や運が悪ければ、静かに見えないところで。発達障害があるとコミュニケーションが難しいため、うまく問題点が肝心の本人には伝わらないまま、気づくころにはもう本人の力では修復不可能なくらいに状況が悪化していたりすることも、大人の社会ではしょっちゅうだ。組織の人間的には「よく分からないから、下手に傷つけたり問題発言をしてしまうよりは、無難な対応をして全体を守ろう」という配慮なのだろうし、世の中的にはそれがおそらくベストなのだろう。でも、発達障害のように一般的に理解されにくい障害の扱いが、子供と大人とでこうも違うとなると、いったい何のための診断なのか、何のためのスペシャルニーズ教育なのか、と疑問に思ってしまう。こういう現状から、大人になって気がついても、敢えて診断をもらったり周りに公表しない人も沢山いる。



●自分と向き合い自分らしく生きる
話を自分のことに戻すと、先に書いた通り、私にもアスペルガー症の特徴に当てはめられるような要素が沢山ある。ただ、今の自分は本当に恵まれた環境にいて、特にアスペルガー症という言葉を使わなくても、自分の個性を理解してくれ好感を抱いてくれる人たちに恵まれている。特にケアンズに来てから、それを強く実感しており、そのお蔭で折り紙や自然界の知識、語学力、教材・教案のアイディアなどを発揮することができている。もちろん、時にはありのままの自分を全面に出すことがためらわれるような環境に身を置くこともあり、その際には自分を出したい衝動をグッと我慢していることも沢山あります。我慢が長続きせずそれによって手放したものもありますが、それでもその我慢を今まで続けられてきたのは、それだけ出したい自分を他の所で出すことができているから。それに改めて気づいた時、やっぱり自分は既に診断のある聴覚処理障害も、診断をもらっていない仮のアスペルガー症にしても、それを「自分の中の壁」と感じてしまうよりも、「他の人にはない個性」と捉えて、厄介な部分はできるだけ抑えつつ、そういう自分の良い部分に自信を持って、個性を発揮し続けるべきなのだと思った。

嫌な思いをすることがあっても、またすぐにそんな前向きな考えに切り替えることができるのは、「みんな違って当たり前」、「個性は発揮すべき」、という考えの人が集まった社会の中にいるからだろう。社会全体がみんなそのようであれば、そもそも「障害」を診断してもらう必要なんてなくなるのかもしれない。。


●自分らしさを認めてくれる人たちへの感謝
長々と考えを書かせてもらいましたが、やっぱり最後に言いたいことは、こんな私を認めてくれる人、慕ってくれる人、利用してくれる人、避けずに叱ってくれる人、みんなにありがとうと伝えたい。そして、その感謝の気持ちを示すために私がすべきことは、今まで通り、人にはなかなか分かってもらえない部分での努力も悔しがらずに続けることと、自分にしか出せない個性やスキルを発揮し続けること。そして、そんな自分に自信を持ち続けることだろうと思う。特に三つ目の「自分に自信を持つこと」に関しては本当に苦手な分野なので、その部分に関しては今後も周りの人のサポートが必要になると思います。恵まれた今の環境に感謝を示すためにも、また自分と似たような悩みを持った人たちの励みになるためにも、応援してくださる人たちに感謝の気持ちを伝えながら、自信を持って自分という人間を生きたいと思います。


応援してくださる皆様、最後まで読んでくださった皆様、本当にありがとうございます。
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